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去年の秋ごろから一人旅をするようになった。
当時は付き合っていた人と別れたばかりで、自信というかプライドというか、自分の精神的な支えが折れてしまったような感じがして、自分に足りないものを得るために、巷では称えられている一人旅をしようと思い立ったのだった。
ぼくはもともと一人旅があまり好きではなく、自分に負荷をかけることで傷ついた心を慰めようとするマゾヒズム的考えがあったとも言えるし、苦痛を経ることで何かを代償として手に入れられると感じていたのかもしれない。
これは広く日本人に見られる習性かもしれないが(断ち物、百度参り、修行など)、実際のところ苦労したからといって何かが得られるという保証はないし、逆に労せずして得をするということもままある。
最近その事実に気がついてきた。
人生は運ゲーではあるが、だからこそ試行回数を増やしたり、運ゲーに持ち込ませないという工夫は大事である。
時にはお祈りすることも。
話が逸れたが、ぼくは一年経ってもいまだに修行を続けている。
どちらかというと目的は現地で人に会うためのことが多くなったが、それでもまだ一人旅はつらく、自傷行為のままだ。
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1日目。東京から名古屋に行って、さてどうしたものかと思い悩む。
すぐにでもホテルで寝転がりたかったが、あいにくチェックインにはまだ時間があった。
動物園に行ってみることにした。
ぼくは普段は水族館を好む性質である。
それはデートで利用するからなのだが、動物園は天候によって快適度が左右されやすく、また獣や環境から漂う臭気が同伴者へ不快感を与えるかもしれないという配慮からだ。
非日常の空間ということもあり、いつもと違うことをする気分になったのかもしれない。
加えて、動物園の入園料が水族館の1/4ほどであるのも大きかった。
市立と私立の違い、水の管理の有無といった違いがあるとはいえ、動物園の動物たちがちゃんとうまい飯を食えているのか心配になってしまう。
幸い、空は晴れ、気温も暑すぎず寒すぎない秋の陽気だった。
老若男女問わず、あらゆる人々が広い園内を移動している。
親子連れ、友人グループ、若いカップル、マッチングアプリで出会ったと思しき中年の男女、車椅子に乗った障害者とその介助者、立ち入り禁止の柵を乗り越えて芝生を踏む外国人、雑多な人間が入り乱れている中を、彼らの声に耳を傾けながら、一匹のどうぶつになって紛れ込む。
だらだらと続く坂道を登りながら、レッサーパンダの面の良さに見惚れたり、フンボルトペンギンの気だるさに思いを馳せたりなどした。
生き物の形態の多種多様さでいえば、水族館よりも面白いかもしれないと思った。
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ありきたりではあるが、動物園に来て人間関係を考える。
柵の向こうにいる動物たちには、触れることができない。
できるのは、ただ見守り、彼らの発する息遣いや空気を感じることだけだ。
寝ていてまったく動かないものもいる。
飼育舎の中から顔を見せないものもいる。
人々は彼らが元気に動き回り、写真映えするいいポーズで止まってくれることを期待するのだが、それがなくても落胆することはない。
動物は、自然は、自分の思い通りにはいかない。
そういうものだと理解しているからだ。
ぼくの隣で望遠レンズを構えた女性は、遠くに現れるかもしれない動物へ、じっと視線を向けていた。
それがあるべき自然との向き合い方なのだろう。
しかし、ぼくはつい人へ期待をしては、その望みが叶わず落胆、とまではいかないまでも落ち込んでしまうことがある。
ある、というか繰り返している。
そういうことは、往々にしてその人が触れる距離にいる、と勘違いしているときに起こる。
本当はその人に触れることはできず、ただ柵の向こうの存在(生きていること)を享受することしか許されないにも関わらず、だ。
距離感を見誤る自分の浅慮さに絶望する。
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他者を動物園の動物に例えるのは失礼かもしれない。
その場合、ぼく自身が檻の中にいると考えることもできる。
見せ物としての自分、もっぱらSNSでの“ポムすてじあ”像だろうか。
だが、ぼくが動物園の動物と大きく違うのは、メタ認知が働いていることだ。
自分が檻の中にいることを知っている。
人気のある動物、人気のない動物がいることを知っている。
そして、種として人気のある動物でなければ、動きを見せなければ人々は寄ってこないことを知っている。
そんなことを考えずとも、出された餌を食べ、寝たいときに寝て、自分が動物園にいることも理解せず、野生の危険からのみ隔離されて、本能のままに生きられたらいいのにと思う。
それで見た目もかわいければ文句なしだ。
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2日目。朝ゆっくりと起床して、昼前にオフ会相手の弁護士の先生と合流する。
普段Twitterで見ている以上に知性に富み、ユーモア溢れる人物だった。
弁護士はやはり賢いんだな、と再認識する。
なによりぼくが惹かれたのは、自分の中で確固たる信念を持っていて、それに従って行動している点だ。
それは仕事だけでなく、私生活においても適用されているのが見て取れた。
ぼくはそういう正義を持っている人がすきだ。
諸事情によりここに書けない話も多いので抽象的な物言いになってしまったが、弁護士としても人としても素晴らしい方だった。
味噌カツもご馳走してくれたし。
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先生と別れてから、ぶらりと名古屋城を見物しに行き、牛タンを食べに行った。
名古屋で有名な店だそうで、これもTwitterのフォロワーが教えてくれたのだ。
そのほかにも、今回の名古屋旅行に際し色々な食事店を多くの人に教えてもらった。
改めて考えると、これは相当に恵まれたことだと言える。
美味しいお店を知るというよりも、人が自分に何かをすすめてくれるという状況がだ。
正直、ぼくはまいばすけっとに売っている納豆巻き(税抜199円)でも充分に美味いと思えるので、美味いものを食べたいという欲が薄い。
でも、教えてくれた店に行ったらそのことでコミュニケーションが取れるし、あるいは誰も知らない美味し“そう”な店を見つければ、それもまた会話のきっかけになる。
インターネットで調べれば優劣のつけようがない美味い店群に対して、関係性という価値を付与してくれる周りの人々に感謝せざるを得ない。
2段落上の納豆巻きのくだりは、読む人によっては「そんなにバカ舌ならもうおすすめしない」ということにもなり得るのでいまこの瞬間から忘れてほしい。
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ホテルの近くにあったドンキに寄る。
フォロワーにおすすめされたリップクリームを探すためだ。
インターネットで調べたところ、ドンキホーテに売っているとの情報を得たが、あいにく近所のドンキ2店舗では販売されていなかった。
そこで遠く離れた名古屋の地で挑戦したのだが、結論を言うとここでも目当てのものは見つからなかった。
店員に訊ねたのだが、彼女は「売っていそうな場所」にアタリをつけ探していた。
在庫のリストとかないの???
そんな探し方だったら見落としがあるかもしれないと思い、店員と別れたあとも丹念に自力で探してみたのだが、やはり見つからなかった。
しかしこの探し方は悪魔の証明であって、特にドンキのような雑多な店では向いていない検索方法だったように思えてならない。
同じフロアでさっきの店員と何度も何度もすれ違うのが気まずかった。
このようなデメリットもある。
余談にはなるが、ドンキを好むユーザー層が作り上げる治安の悪さ、それが滞留するドンキの近辺をイメージキャラクターの名前にかけて「ドン辺(どんぺん)」と呼ぶことを提案したい。
用例:「名古屋のドン辺には観覧車があるって知ってた?」
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3日目。旅行も後半になると、帰りたい気持ちが増してくる。
あらかじめ取っておいた新幹線のチケットを前倒しにした。
旅行はまるで焼肉のようだと思う。
肉を食べたい気持ちが盛り上がって人は焼肉に行くのだが、実際に行くとそうでもない。
現実の肉の美味さは想像の肉の味を超えないし、肉を焼いたり網を替えてもらうのがめんどくさいし、終盤は余った食材を食べる義務感に駆られるし、放置されて焦げたり冷めたりした肉は純粋に味が劣るし、脂のせいか食べたあとは満足感というより満腹感・もたれ感のほうが勝る気がする。
焼肉の持っている高級感や特別感といったキラキラしたイメージが先行しすぎているのではないだろうか。
旅行もこれに似たようなところがあるとぼくは思っている。
旅に出る前のワクワク感はこの上なく極上のものだ。
しかし普段と異なる環境にいるストレスや、後半になるにつれ蓄積する疲労感は確実に身体に溜まっていく。
観光地だって美しくラッピングされた宣伝とは違うだろう。
他の観光客が迷惑行為をしているかもしれない。
ぼくはつくづく生活が好きで、優しい日常を愛しているのだ。
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親戚の人と昼ごはんを食べたあと、科学館に行った。
これは思いの外良かった。
時間の都合上、プラネタリウムを鑑賞してすぐ退散したのだが、一日中滞在してもいいレベルだった。
まあ、ぼくの趣味や興味関心と合致しているのもあるからだろうが。
プラネタリウムも素晴らしく、座席が家に欲しくなる。
プラネタリウムが発明されてからちょうどこの10月で100年にあたるということで、特別な解説がなされていた。
プラネタリウムの下階では特別展もやっていた。
投影機のメカニカルな構造を間近で見ることができ、胸が高鳴る。
ぼくは天文学というよりかはプラネタリウムという建築および神話になぞらえた星座の話が好きなのだが、投影機の進化もとても興味深く観覧することができた。
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名駅に戻り、そそくさとおみやげを買う。
おみやげを選ぶのは好きな時間だ。
どれを買えば喜んでもらえるかを想像しながら、あれやこれやと店を見て回るのは楽しい。
普段自分のために買い物をすることがほとんどなく、買うにしても明確にほしいものがあってそれを手に取るだけなので、「正解がない中でベターな選択をする」という目的で色々な商品を探索するのが面白いのだと思う。
自己満足の世界だというのも気持ちよさの一因かもしれない。
おみやげを渡した相手が実際に喜ぶかどうかはぼくは知りえないのだから、大抵の場合は相手の喜びの表出を見て、「ああ、喜んでくれた」と満足できるのである。
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さて、旅の記録もこれでおしまいだ。
種々の出来事に対して考えたことをつらつらと書いてみた。
長いものもあれば短いものもあり、それはぼくの思考の長さと比例しているかもしれないし、していないかもしれない。
去年の秋から始まった一人旅という名の自傷行為はいまだに辞められそうにない。
旅行の最中も、いたる時で寂寥感が去来した。
その穴を埋めるかのようにツイートをした。
本当はその呟きの容れ物である、穴のほうを知ってもらいたかったんだと思う。
旅行中は気づかなかったけど、思ったより自分は孤独ではないかもしれない。
振り返れば様々な場面で周囲の人の存在を感じられた。
永遠に存在する人間関係などないことはわかっている。
あの人もあの人も、いつかはぼくの前から姿を消すだろうということは、これまでの経験から身に染みて知っている。
わかってはいるが、せめてそれが長く続いてほしいと、小さな部屋の寝慣れたシングルベッドの上で祈るのであった。