はじめに

皆さんはじめまして。

ポムすてじあと申します。

自己紹介とこのブログについて、ざっと書きたいと思います。

自己紹介

職業:医者(医師って名乗るのは苦手)

2021年度から関東のどこかの市中病院で初期研修しています(現在2年目)。

将来の志望科は麻酔科です(外来が嫌いなので)。

病棟業務もあまり好きではないので、ICUもできれば進みたくはないです。

ポムポムプリンが好きです。

 

このブログについて

おもに資産形成の過程を記録していこうと思います。

長期的に投資をしていく中で、短期的に目に見える成果がないとストレスが溜まってしまうためです。

ギャンブルや投機・マネーゲームに手を出さないためにも、数字の上でお金を触って満足しておこうということです。

 

資産形成といってもほとんどインデックスファンドを積み立てているだけなので、有益な情報は少ないかもしれません。

医者の経済事情の一例として見てもらえればと思います。

 

仕事や、仕事以外の事柄で勉強したことについても、成果を残す目的で書くかもしれません。

書かないかもしれません。

 

 

それでは、ポムポム・ウォークの旅にお付き合いください。

このページは適宜更新する予定です。

馬が欲しい人に自動車を売る

https://x.com/pompom_anesth/status/1770804727480987659?s=46&t=TZ_5y5VEyehyKkmTv-tvsQ

https://x.com/pompom_anesth/status/1770806359363113061?s=46&t=TZ_5y5VEyehyKkmTv-tvsQ

 

似たような状況が他にもあった。

 

好きな人がつらい状況に置かれている、という苦しみ

ぼくがそれを助けられない、という苦しみ

 

無力感に苛まれてしまう。

 

ぼくがはっきりと「あなたを好きなので助けになりたい」と言えば何かが変わるかもしれないけど、

伸ばした手を拒絶される(見えない)苦しみに怯えている。

 

保険診療をやっている人は、顧客に魅力的な提案をする能力に欠ける」という指摘を受けた。

言い得て妙だな、と思った。

向こうから求めてきた助けに応えることができても、こちらから売り込むことはとことん苦手である。

泣きました 僕は女医でママで麻酔科です

この問題は根深い。

あくまで自分の思考メモであって、誰かを批判したり断罪するつもりではないことを最初に書いておく。

 

ぼくの背景

→年次:専門医未取得、男性、未婚、子なし

 

そもそも、Twitterで語られる時の「ママ」「女医」「麻酔科」は主語がデカすぎる、と思う。

ママだから働かないとか、女医だからゆるふわだとか、麻酔科だから楽しようとしてる、みたいな考えは視野が狭いと思わざるを得ない。

インターネットで見知っただけの知識の人、初期研修のときに回っただけの印象の人、自施設しか知らずそれをベースに話す人、多くの意見が混在している。

施設によって置かれている状況が異なるという視点は常に念頭に置いておく必要がある。

果たして一般化していい意見なのか? そういう批判の目を持ってほしい。

それがないままでインターネットをやると、他人を傷つけかねないし他人の言葉で無駄に傷つきかねない。

 

「子供は社会全体の財産になる」という意見には納得できる。

そもそも自分たちが歳をとったときに社会を維持してくれるのは子供たちの世代なので。

ただ、単純に「子育てをしている人を優先するべき」とはならないだろう。

企業(病院)としては社員が子育てをすることが直接利益になるわけではないから。

むしろ、法律や条例など、公的な立場から子育てする人を優遇しなければならないと思う。

 

子育てをしている人がそうでない人に比べて仕事をしてないなら、立場が悪くなることはある程度仕方ない面があると思う。

ペットは家族という人もいるけど、飼い犬の世話のために早退するのはどうなのだろう?

将来家族になる予定の恋人と、信頼を深めるためにデートをするのは?

恋人がいないから合コンに行くのは?

運命の出会いがあるかもしれないからコンサートに行くのは?

仕事でないという点では子育ても趣味の時間も同じなのだから、会社が子育てだけ特別扱いをする道理は特にないはず。

 

女性が出産・子育てで仕事できない期間がある→故に会社内での立場が低い(そもそも医学部に入らなかったりする)ことについては、もうみんな平等に休ませるしかない。

男性も一定期間働かなくなれば、女性だからという理由で不当に低い評価を受けることはなくなる。

もちろん、未婚の女性も例外なく休ませる。

休職期間中は非常勤バイトや副業は当然禁止だけど、これをどのくらい取り締まれるかが難しそう。

 

個人的には、自分以外の人間で代替可能な仕事をするよりも、家庭を築いて子を成すことのほうがずっと価値のあることだと思う。

これは現時点でぼくが子を成せる見通しが立ってないから、隣の芝生が青く見えてるのかもしれないけど。

「キャリアが中断されて悲しい」という女性は、夫が子を持ちながらキャリアを中断せずに仕事している例を身近に見ているから言えるのかなとも思った。

夫婦間でどのくらい家事や子育てに対する割合を負担するかはそれこそもっと個別具体的な話になるので、他の家庭が触れることではないな。

 

反論・異論大歓迎です。

危機感ニキと交通事故理論、あるいはマルチバースの自分

少し前に「危機感ニキ」というものが話題になっていたらしい。

らしい、というのはぼくはそれが話題になっているのを知らず(Twitterから離れていたため)、後になってそれに反応する配信者たちの動画をYouTubeで見て知ったからだ。

 

背景を説明すると、男性向け自己啓発系のYouTuberが「スポーツをしてこなかった男は魅力がないのでモテない(大意)」と発言した動画が、第三者によって切り抜かれた。

その切り抜きはから見ることができる。

https://x.com/takigare3/status/1752110931956617371?s=46&t=TZ_5y5VEyehyKkmTv-tvsQ

昨今のインターネットにおいては「モテない」「非モテ」といったことがカジュアルに/ネタとして語られる風潮はあるものの、依然として少なくない人にとっては重要なことであるのは疑いようがない。

「モテない男」という多くの人のコンプレックスを刺激する内容に加え、画面のこちら側を見つめながら語りかけてくる彼の独特の口調がいっそう人の心を逆撫でたのか、とにかく彼の切り抜き動画はバズった。

 

話は冒頭に戻り、ぼくは好きな配信者がこの「危機感ニキ」の動画を見る動画を閲覧し、一連の話題に追いついたのだった。

追いついたころには話題が消え去っていたような気もするが、その移り変わりの早さに触れるのはまた別の機会にする。

 

あらためて危機感ニキの発言をまとめてみよう。

スポーツ経験がない男

部活に入った経験がない男

俺ガチで危機感持った方がいいと思う

ガチで危機感持った方がいい

それこそがお前がどう足掻いてもモテない理由だと思う

モテないって

これまでに一度もスポーツの経験がなかったら

部活に入ってなかったら

筋トレすらもしてなかったら

厳しいって

明らかな事実だと思う

俺には「俺はスポーツ向いてないから」「運動神経ないから」「家に引きこもってる方が楽しいから」「俺はゲームが好きだから」

やばいって

何がやばいかっていうと男として成熟しないんだよね

その人生の中で何かしらの競争をしてないと男として成熟するためのパーツに欠けるんだよね

お前最後に競争したのいつ?

他の男と戦ったのいつ?

監督に理不尽なこと言われたのいつ?

ないでしょ そういう経験

弱いって 絶対メンタル弱くなるって

勝負の世界にいたことがない男は、自分のプライドが傷つけられてことがない男は、他の男に負けたっていう悔しさを持ったことがない男(は)

弱いって モテないって

メンタルの強さがないんだもん

お前最後に腹から声出したのいつ?

一日中家引きこもってボソボソボソボソ

ボソボソ喋ってんなよ

マジで 全部 スポーツやってないからよ

明らかに勝ち負けの世界で戦ったことがないからよ

自分のプライドに傷が入るような状況に置かれたことがないからよ

だからすぐに「ああ俺はダメなんだ」

またボソボソ喋り始める

文句を言う

ちょっとの理不尽なことあったら耐えられない

いや世の中は理不尽だって

うん、理不尽よ ねぇ

 

彼の論旨は、モテるためには「男としての成熟」「メンタリティの強さ」「理不尽に耐える忍耐力」が必要であり(三者が同じものを示しているのかはわからない)、それを身につけるためにはスポーツで他の男と競い合い、プライドを傷つけられる経験をする必要がある、というものだ。

ぼくは、これはあながち間違ってもいないと思う。

実際、彼の主張がてんで的外れだった場合、こんなに人の目に触れることもなかっただろう。

部分的には合っているからこそ、刺さる人に刺さったのだ。

 

「男らしさ」「女らしさ」という言葉が忌避されるようになった世の中ではあるが、まだまだ個人の嗜好のレベルでは男性の「男らしさ」というのは好意的に受け止められ、「女々しさ」というのは疎まれる傾向にあると思う。

異性に好まれる「男らしさ」が、危機感ニキの言うところの「成熟」「メンタリティ」「忍耐力」なのだろうなというのは想像に難くない。

しかし、上に書いた論旨の後半部分、その手段がスポーツであるというところはどうだろう?

あたかも全てスポーツをすることで解決するかのような言い方にはぼくは懐疑的だ。

 

そもそもぼくは運動部に入ったこともないし、モテたこともないから、危機感ニキの動画が刺さる層(刺さっているからこそこうしてブログをネチネチと書いているわけだ)ではある。

言い換えれば彼の客層であるのだが、かといって危機感ニキのお世話になって男磨きをしようなどとは露ほども思わない。

なぜならば、「モテる」ということは自分の価値判断を他者の基準に委ねることであって、ぼくが大切だと思っている自己肯定感とは真逆だからだ。

もちろん、自己肯定感を育む上で他者からの承認を得ることは大事だ。

しかしそれは過程であって、結果ではない。

モテない自分でもぼくは自分が好きだから、あまりモテることに意味がない、結局コンプレックスを解消することにしかならない、ということだ。

 

あと、二十余年スポーツをやってこなかった社会人が、「お前がモテてないのはスポーツやってこなかったからだ」と言われても、いまさらどうすることもできなくない?

過去について言及しても仕方ないから、ぼくは危機感ニキの言葉で激しく心が揺さぶられることはなかったのだけど、世の中にはそうじゃない人もたくさんいるんだろうなとは思う。

そういう人は少なからず「部活に打ち込んでおけばよかった」とか、「スポーツをやらせてくれなかった親が悪い」とか思ったりもするのかもしれない。

スポーツの話に限らず、人間は誰しも後悔に苛まれるものだ。

ああしておけばよかった、もしくはしなければよかったと思い悩む。

選ばなかった未来を想像して、現状と比較し、嘆いてしまうことはあるだろう。

 

ぼくはそういう人の味方でいたいから、ぼくが持っている解決策を二つ、ここに授けようと思う。

まず一つは、ぼくが「交通事故理論」と呼んでいるものだ。

ぼくがサッカー部に入ってたら、朝練に行く途中で交通事故に遭って死んでいた、と思うようにするのだ。

別にサッカー部でなくてもいい。

受からなかった国立大学に行っていたら荒っぽい運転に巻き込まれて死んでいた。

好きだったあの子と付き合っていたら、デートの途中で彼女を庇って死んでいた。

そういう風に、ifルートの自分があっけなく死んでいた、と想像することで、今生きていてよかったと思うようにする方法だ。

 

上記の方法は、現状が死ぬよりマシなときにしか使えない方法である、という欠点がある。

ぼくはまだ経験したことがないのだが、死んだほうがマシだと思えるくらいのつらさを感じることも時にはあるだろう(そのくらいつらい時に後悔をする余裕があるとは思えないけど)。

もう一つの方法は、「マルチバース理論」と呼んでいるものだ。

マルチバースというのは多元宇宙とか訳されたりもするが、要はパラレルワールドだと考えてもらっていい。

コインを一枚投げて、表が出たとする。

するとぼくたちは「コイン表」の世界線を生きることになるのだが、ぼくたちの観測しえない場所で「コイン裏」の世界線が続いている、という風に考えてもらって差し支えない。

マルチバースは無限の分岐の末の無限の可能性を孕んでいるため、理論上はどんな世界でもありうる。

つまり、サッカー部に入って好きだったあの子と付き合い国立大学に進学したぼくも存在しうる、ということだ。

「無限に続く円周率の中には、自分の電話番号と同じ数字の並びが存在する」のと同じ理屈だ。

この方法では、どこかの世界で自分は幸せなんだと思える。

たとえ今の世界線の自分が後悔ばかりでも、別の世界では幸せに暮らしているんだからそれでいいと悲観的にならずに済む。

幸せな自分は別の世界線に確保されているから、今いる世界でがんばろうと思えるのだ。

 

以上二つの手法を紹介したが、ハマらなかったら申し訳ない。

もしぼく以外に、危機感ニキの動画で多少なりとも心が傷ついた人がいたとしたら、別にそんなに気にすることではないと言いたい、そういう記事である。

不特定多数に向けて他人の人生を否定するってことは、どこかしら危機感ニキも欠乏を抱えているんだろうなと想像する。

金銭的な欠乏、精神的な欠乏。

そういう人にあなたの大切な魂を傷つけられるのは、ばかばかしいよ。

『損する結婚 儲かる離婚』読んだ

藤沢数希 著

 

結婚生活が破綻した場合に起こる金銭のやり取りについて書かれた本。

離婚の際に動く金は

A.慰謝料

B.財産分与

C.婚姻費用

このうち、A.慰謝料は高くても100〜200万程度で大した額ではない。

 

B.財産分与

“結婚してから”築き上げた財産は、離婚時に夫婦で折半される。

仮に夫だけが働いて稼いだ場合でも、その財産は「専業主婦である妻の内助の功」があってからこそ築かれたとみなされる。

実際には専業主婦の奥さんがいたからといって2倍働けるようになるわけでも2倍稼げるようになるわけでもないけど、そうなっている。

 

C.婚姻費用

通称「コンピ」。この本の肝。

いざ離婚しようと決まっても、書類上で婚姻関係にある間は、稼いでいるほうは稼いでいないほうへ金を払う必要がある。

この婚姻費用を搾り取るために離婚調停をだらだらと引き延ばす妻も少なくない。

 

結婚を金融商品/債券の契約としてみた場合、結婚相手は安定したキャッシュフローを生む相手を選ぶべきである。

相手の実家が太かったり、すでにピークをすぎたスポーツ選手などと結婚しても、自分の財産は増えない可能性が高い。

 

現在の婚姻制度は、明治時代に制定されたものが変わることなく使われており、現代の価値観とそぐわないのが現状である。

女性の社会進出が進み、しっかりとした収入がある女性にとっては、自分より金持ちの男と結婚できないなら結婚しないほうが(たとえ子供を持つとしても)マシということになる。

本書の後半はこうした婚姻制度の歪さを指摘し、人々が幸福な結婚生活を営めるためにはどうしたらよいか、その命題を投げかける内容になっている。

 

〜ここから感想〜

「結婚しなくてもいいかなぁ」という気持ちになった。

様々な場で「読むと結婚したくなくなる本」と紹介される本書だが、ぼくもその例に漏れなかったようだ。

ただ、積極的に「結婚したくない」に傾いたわけではなく、「結婚したい」側に傾いていた針がプラマイゼロに戻ったような感じかな。

 

この本を読んで、男女(多様性が求められる社会なのはわかっているが、簡便のためこう書かせてもらう)の繋がりって色々あるよな、と改めて考えさせられた。

a.身体/肉体の繋がり

b.精神/心の繋がり

c.遺伝子の繋がり

d.生活の繋がり

e.金の繋がり

この本はe.に特に重点を置いて、「結婚するなら自分と同じくらいか、自分以上に収入がある人がいい」と言っているわけだ。

 

自由恋愛の延長に結婚が置かれている場合、a.やb.が重視されるんだろうなと思う。

Twitterで定期的に「結婚相手は◯◯で選べ」みたいなツイートが流れてくるけど、「顔がよければ喧嘩しても許せる」「絶対に自分の味方になってくれる安心感」「生活のストレスがない以上のことはない」など、どの意見も見てきた。

単にそれぞれのツイートをした人がどれに重きを置いているかなんだろうなと思う。

 

5つ全てを一人の相手に求め合うこと自体が無理筋なんだよな。

夫婦間のセックスレスの問題とかはわかりやすい形で表面化する問題だけどさ。

子供がいても一緒に暮らしていない人もいるし、もっと自由に男女が繋がっていられる社会の形でもいいんじゃないかと思う。

セックスしたい人とセックスして、一緒に映画を観に行きたい人と映画観て、一緒に暮らしたい人と暮らして、子供を作りたい相手と子供作って、経済的に信頼できる相手と財産を築く、そういう生き方があっても(もうやってる人はいるだろうけど)いいと思う。

たぶんそういう生き方が広がったら、ぼくみたいな非モテは誰ともセックスできずに遺伝子も淘汰されるんだろうけど、現状の狂った婚姻制度に振り回されて結婚できないことを嘆くよりかは多少マシなんじゃないかな?

 

「結婚していなくて、いつでも離れられるけど、一緒にいたいから付き合っている」っていう状態のほうが、その逆の状態よりも健全だと思う。

天錐

悲しみは雨によく例えられる。

雨に濡れると冷たいし、身体が冷える。

その感覚が、悲しみに打ちひしがれる心の様子に似ているからだろう。

 

うつむくその背中に痛い雨がつき刺さる

祈る想いで見ていた

大野克夫「キミがいれば」より

 

貴方に降り注ぐものが譬え雨だろうが運命だろうが

許すことなど出来る訳ない

椎名林檎「闇に降る雨」より

 

ぼくは麻酔科医で、日々病という悲しみを背負った人々を相手に仕事をしている。

日々患者と向き合っていることに加え、病気は「有病率」「リスク因子」などといった数字で処理されるからか、病の悲しみに対して感覚が鈍りがちだ。

 

だからそのぶん、災害や事故といったものに対する耐性が低いのかもしれない。

Twitterで気が滅入っている人のつぶやきを多く見て感化されてしまったのもあるだろう。

 

悲しみというのは雨粒のように、誰の頭上にも平等に降りかかる。

善人悪人問わず。

どうしようもない、避けられない不幸がある。

そんな当たり前のことを思い出させる年始だった。

幸い、周りに雨に打たれた人がいなかったのが心の安寧だ。

 

羽田空港の事故で、乗客がスムーズに避難できたというニュースは、年末のコミケで見た整列入場を想起させた。

何万人という黒山の人だかりが、係員の言うことを聞いて順々に展示場に入っていく。

あれはある種工業製品的な、人の持つ自由さからはかけ離れたグロテスクさがあった。

あの規範はおそらく日本の義務教育で叩き込まれるものなのだが、いざというとき(飛行機事故の際)には本人の命を助けるのだなぁと感心したのだった。

 

誰かの流した涙滴が、天に昇って落ちてくる。

その繰り返しからは逃れることができないが、ぼくは人の涙から目を逸らさないで生きたい。

名古屋旅行2023

去年の秋ごろから一人旅をするようになった。

 

当時は付き合っていた人と別れたばかりで、自信というかプライドというか、自分の精神的な支えが折れてしまったような感じがして、自分に足りないものを得るために、巷では称えられている一人旅をしようと思い立ったのだった。

 

ぼくはもともと一人旅があまり好きではなく、自分に負荷をかけることで傷ついた心を慰めようとするマゾヒズム的考えがあったとも言えるし、苦痛を経ることで何かを代償として手に入れられると感じていたのかもしれない。

 

これは広く日本人に見られる習性かもしれないが(断ち物、百度参り、修行など)、実際のところ苦労したからといって何かが得られるという保証はないし、逆に労せずして得をするということもままある。

最近その事実に気がついてきた。

 

人生は運ゲーではあるが、だからこそ試行回数を増やしたり、運ゲーに持ち込ませないという工夫は大事である。

時にはお祈りすることも。

 

話が逸れたが、ぼくは一年経ってもいまだに修行を続けている。

 

どちらかというと目的は現地で人に会うためのことが多くなったが、それでもまだ一人旅はつらく、自傷行為のままだ。

 

1日目。東京から名古屋に行って、さてどうしたものかと思い悩む。

 

すぐにでもホテルで寝転がりたかったが、あいにくチェックインにはまだ時間があった。

 

動物園に行ってみることにした。

 

ぼくは普段は水族館を好む性質である。

それはデートで利用するからなのだが、動物園は天候によって快適度が左右されやすく、また獣や環境から漂う臭気が同伴者へ不快感を与えるかもしれないという配慮からだ。

 

非日常の空間ということもあり、いつもと違うことをする気分になったのかもしれない。

 

加えて、動物園の入園料が水族館の1/4ほどであるのも大きかった。

市立と私立の違い、水の管理の有無といった違いがあるとはいえ、動物園の動物たちがちゃんとうまい飯を食えているのか心配になってしまう。

 

幸い、空は晴れ、気温も暑すぎず寒すぎない秋の陽気だった。

 

老若男女問わず、あらゆる人々が広い園内を移動している。

親子連れ、友人グループ、若いカップル、マッチングアプリで出会ったと思しき中年の男女、車椅子に乗った障害者とその介助者、立ち入り禁止の柵を乗り越えて芝生を踏む外国人、雑多な人間が入り乱れている中を、彼らの声に耳を傾けながら、一匹のどうぶつになって紛れ込む。

 

だらだらと続く坂道を登りながら、レッサーパンダの面の良さに見惚れたり、フンボルトペンギンの気だるさに思いを馳せたりなどした。

 

生き物の形態の多種多様さでいえば、水族館よりも面白いかもしれないと思った。

 

ありきたりではあるが、動物園に来て人間関係を考える。

 

柵の向こうにいる動物たちには、触れることができない。

 

できるのは、ただ見守り、彼らの発する息遣いや空気を感じることだけだ。

 

寝ていてまったく動かないものもいる。

飼育舎の中から顔を見せないものもいる。

 

人々は彼らが元気に動き回り、写真映えするいいポーズで止まってくれることを期待するのだが、それがなくても落胆することはない。

 

動物は、自然は、自分の思い通りにはいかない。

そういうものだと理解しているからだ。

 

ぼくの隣で望遠レンズを構えた女性は、遠くに現れるかもしれない動物へ、じっと視線を向けていた。

それがあるべき自然との向き合い方なのだろう。

 

しかし、ぼくはつい人へ期待をしては、その望みが叶わず落胆、とまではいかないまでも落ち込んでしまうことがある。

ある、というか繰り返している。

 

そういうことは、往々にしてその人が触れる距離にいる、と勘違いしているときに起こる。

 

本当はその人に触れることはできず、ただ柵の向こうの存在(生きていること)を享受することしか許されないにも関わらず、だ。

 

距離感を見誤る自分の浅慮さに絶望する。

 

他者を動物園の動物に例えるのは失礼かもしれない。

その場合、ぼく自身が檻の中にいると考えることもできる。

 

見せ物としての自分、もっぱらSNSでのポムすてじあ像だろうか。

 

だが、ぼくが動物園の動物と大きく違うのは、メタ認知が働いていることだ。

 

自分が檻の中にいることを知っている。

人気のある動物、人気のない動物がいることを知っている。

そして、種として人気のある動物でなければ、動きを見せなければ人々は寄ってこないことを知っている。

 

そんなことを考えずとも、出された餌を食べ、寝たいときに寝て、自分が動物園にいることも理解せず、野生の危険からのみ隔離されて、本能のままに生きられたらいいのにと思う。

 

それで見た目もかわいければ文句なしだ。

 

2日目。朝ゆっくりと起床して、昼前にオフ会相手の弁護士の先生と合流する。

 

普段Twitterで見ている以上に知性に富み、ユーモア溢れる人物だった。

 

弁護士はやはり賢いんだな、と再認識する。

 

なによりぼくが惹かれたのは、自分の中で確固たる信念を持っていて、それに従って行動している点だ。

それは仕事だけでなく、私生活においても適用されているのが見て取れた。

 

ぼくはそういう正義を持っている人がすきだ。

 

諸事情によりここに書けない話も多いので抽象的な物言いになってしまったが、弁護士としても人としても素晴らしい方だった。

 

味噌カツもご馳走してくれたし。

 

先生と別れてから、ぶらりと名古屋城を見物しに行き、牛タンを食べに行った。

 

名古屋で有名な店だそうで、これもTwitterのフォロワーが教えてくれたのだ。

 

そのほかにも、今回の名古屋旅行に際し色々な食事店を多くの人に教えてもらった。

 

改めて考えると、これは相当に恵まれたことだと言える。

 

美味しいお店を知るというよりも、人が自分に何かをすすめてくれるという状況がだ。

 

正直、ぼくはまいばすけっとに売っている納豆巻き(税抜199円)でも充分に美味いと思えるので、美味いものを食べたいという欲が薄い。

 

でも、教えてくれた店に行ったらそのことでコミュニケーションが取れるし、あるいは誰も知らない美味しそうな店を見つければ、それもまた会話のきっかけになる。

 

インターネットで調べれば優劣のつけようがない美味い店群に対して、関係性という価値を付与してくれる周りの人々に感謝せざるを得ない。

 

2段落上の納豆巻きのくだりは、読む人によっては「そんなにバカ舌ならもうおすすめしない」ということにもなり得るのでいまこの瞬間から忘れてほしい。

 

ホテルの近くにあったドンキに寄る。

 

フォロワーにおすすめされたリップクリームを探すためだ。

 

インターネットで調べたところ、ドンキホーテに売っているとの情報を得たが、あいにく近所のドンキ2店舗では販売されていなかった。

 

そこで遠く離れた名古屋の地で挑戦したのだが、結論を言うとここでも目当てのものは見つからなかった。

 

店員に訊ねたのだが、彼女は「売っていそうな場所」にアタリをつけ探していた。

在庫のリストとかないの???

 

そんな探し方だったら見落としがあるかもしれないと思い、店員と別れたあとも丹念に自力で探してみたのだが、やはり見つからなかった。

 

しかしこの探し方は悪魔の証明であって、特にドンキのような雑多な店では向いていない検索方法だったように思えてならない。

 

同じフロアでさっきの店員と何度も何度もすれ違うのが気まずかった。

このようなデメリットもある。

 

余談にはなるが、ドンキを好むユーザー層が作り上げる治安の悪さ、それが滞留するドンキの近辺をイメージキャラクターの名前にかけて「ドン辺(どんぺん)」と呼ぶことを提案したい。

用例:「名古屋のドン辺には観覧車があるって知ってた?」

 

3日目。旅行も後半になると、帰りたい気持ちが増してくる。

 

あらかじめ取っておいた新幹線のチケットを前倒しにした。

 

旅行はまるで焼肉のようだと思う。

 

肉を食べたい気持ちが盛り上がって人は焼肉に行くのだが、実際に行くとそうでもない。

現実の肉の美味さは想像の肉の味を超えないし、肉を焼いたり網を替えてもらうのがめんどくさいし、終盤は余った食材を食べる義務感に駆られるし、放置されて焦げたり冷めたりした肉は純粋に味が劣るし、脂のせいか食べたあとは満足感というより満腹感・もたれ感のほうが勝る気がする。

 

焼肉の持っている高級感や特別感といったキラキラしたイメージが先行しすぎているのではないだろうか。

 

旅行もこれに似たようなところがあるとぼくは思っている。

 

旅に出る前のワクワク感はこの上なく極上のものだ。

しかし普段と異なる環境にいるストレスや、後半になるにつれ蓄積する疲労感は確実に身体に溜まっていく。

観光地だって美しくラッピングされた宣伝とは違うだろう。

他の観光客が迷惑行為をしているかもしれない。

 

ぼくはつくづく生活が好きで、優しい日常を愛しているのだ。

 

親戚の人と昼ごはんを食べたあと、科学館に行った。

 

これは思いの外良かった。

 

時間の都合上、プラネタリウムを鑑賞してすぐ退散したのだが、一日中滞在してもいいレベルだった。

まあ、ぼくの趣味や興味関心と合致しているのもあるからだろうが。

 

プラネタリウムも素晴らしく、座席が家に欲しくなる。

プラネタリウムが発明されてからちょうどこの10月で100年にあたるということで、特別な解説がなされていた。

プラネタリウムの下階では特別展もやっていた。

 

投影機のメカニカルな構造を間近で見ることができ、胸が高鳴る。

ぼくは天文学というよりかはプラネタリウムという建築および神話になぞらえた星座の話が好きなのだが、投影機の進化もとても興味深く観覧することができた。

 

名駅に戻り、そそくさとおみやげを買う。

 

おみやげを選ぶのは好きな時間だ。

 

どれを買えば喜んでもらえるかを想像しながら、あれやこれやと店を見て回るのは楽しい。

 

普段自分のために買い物をすることがほとんどなく、買うにしても明確にほしいものがあってそれを手に取るだけなので、「正解がない中でベターな選択をする」という目的で色々な商品を探索するのが面白いのだと思う。

 

自己満足の世界だというのも気持ちよさの一因かもしれない。

 

おみやげを渡した相手が実際に喜ぶかどうかはぼくは知りえないのだから、大抵の場合は相手の喜びの表出を見て、「ああ、喜んでくれた」と満足できるのである。

 

さて、旅の記録もこれでおしまいだ。

 

種々の出来事に対して考えたことをつらつらと書いてみた。

長いものもあれば短いものもあり、それはぼくの思考の長さと比例しているかもしれないし、していないかもしれない。

 

去年の秋から始まった一人旅という名の自傷行為はいまだに辞められそうにない。

 

旅行の最中も、いたる時で寂寥感が去来した。

その穴を埋めるかのようにツイートをした。

本当はその呟きの容れ物である、穴のほうを知ってもらいたかったんだと思う。

 

旅行中は気づかなかったけど、思ったより自分は孤独ではないかもしれない。

振り返れば様々な場面で周囲の人の存在を感じられた。

 

永遠に存在する人間関係などないことはわかっている。

あの人もあの人も、いつかはぼくの前から姿を消すだろうということは、これまでの経験から身に染みて知っている。

 

わかってはいるが、せめてそれが長く続いてほしいと、小さな部屋の寝慣れたシングルベッドの上で祈るのであった。