少し前に「危機感ニキ」というものが話題になっていたらしい。
らしい、というのはぼくはそれが話題になっているのを知らず(Twitterから離れていたため)、後になってそれに反応する配信者たちの動画をYouTubeで見て知ったからだ。
背景を説明すると、男性向け自己啓発系のYouTuberが「スポーツをしてこなかった男は魅力がないのでモテない(大意)」と発言した動画が、第三者によって切り抜かれた。
その切り抜きは↓から見ることができる。
https://x.com/takigare3/status/1752110931956617371?s=46&t=TZ_5y5VEyehyKkmTv-tvsQ
昨今のインターネットにおいては「モテない」「非モテ」といったことがカジュアルに/ネタとして語られる風潮はあるものの、依然として少なくない人にとっては重要なことであるのは疑いようがない。
「モテない男」という多くの人のコンプレックスを刺激する内容に加え、画面のこちら側を見つめながら語りかけてくる彼の独特の口調がいっそう人の心を逆撫でたのか、とにかく彼の切り抜き動画はバズった。
話は冒頭に戻り、ぼくは好きな配信者がこの「危機感ニキ」の動画を見る動画を閲覧し、一連の話題に追いついたのだった。
追いついたころには話題が消え去っていたような気もするが、その移り変わりの早さに触れるのはまた別の機会にする。
あらためて危機感ニキの発言をまとめてみよう。
スポーツ経験がない男
部活に入った経験がない男
俺ガチで危機感持った方がいいと思う
ガチで危機感持った方がいい
それこそがお前がどう足掻いてもモテない理由だと思う
モテないって
これまでに一度もスポーツの経験がなかったら
部活に入ってなかったら
筋トレすらもしてなかったら
厳しいって
明らかな事実だと思う
俺には「俺はスポーツ向いてないから」「運動神経ないから」「家に引きこもってる方が楽しいから」「俺はゲームが好きだから」
やばいって
何がやばいかっていうと男として成熟しないんだよね
その人生の中で何かしらの競争をしてないと男として成熟するためのパーツに欠けるんだよね
お前最後に競争したのいつ?
他の男と戦ったのいつ?
監督に理不尽なこと言われたのいつ?
ないでしょ そういう経験
弱いって 絶対メンタル弱くなるって
勝負の世界にいたことがない男は、自分のプライドが傷つけられてことがない男は、他の男に負けたっていう悔しさを持ったことがない男(は)
弱いって モテないって
メンタルの強さがないんだもん
お前最後に腹から声出したのいつ?
一日中家引きこもってボソボソボソボソ
ボソボソ喋ってんなよ
マジで 全部 スポーツやってないからよ
明らかに勝ち負けの世界で戦ったことがないからよ
自分のプライドに傷が入るような状況に置かれたことがないからよ
だからすぐに「ああ俺はダメなんだ」
またボソボソ喋り始める
文句を言う
ちょっとの理不尽なことあったら耐えられない
いや世の中は理不尽だって
うん、理不尽よ ねぇ
彼の論旨は、モテるためには「男としての成熟」「メンタリティの強さ」「理不尽に耐える忍耐力」が必要であり(三者が同じものを示しているのかはわからない)、それを身につけるためにはスポーツで他の男と競い合い、プライドを傷つけられる経験をする必要がある、というものだ。
ぼくは、これはあながち間違ってもいないと思う。
実際、彼の主張がてんで的外れだった場合、こんなに人の目に触れることもなかっただろう。
部分的には合っているからこそ、刺さる人に刺さったのだ。
「男らしさ」「女らしさ」という言葉が忌避されるようになった世の中ではあるが、まだまだ個人の嗜好のレベルでは男性の「男らしさ」というのは好意的に受け止められ、「女々しさ」というのは疎まれる傾向にあると思う。
異性に好まれる「男らしさ」が、危機感ニキの言うところの「成熟」「メンタリティ」「忍耐力」なのだろうなというのは想像に難くない。
しかし、上に書いた論旨の後半部分、その手段がスポーツであるというところはどうだろう?
あたかも全てスポーツをすることで解決するかのような言い方にはぼくは懐疑的だ。
そもそもぼくは運動部に入ったこともないし、モテたこともないから、危機感ニキの動画が刺さる層(刺さっているからこそこうしてブログをネチネチと書いているわけだ)ではある。
言い換えれば彼の客層であるのだが、かといって危機感ニキのお世話になって男磨きをしようなどとは露ほども思わない。
なぜならば、「モテる」ということは自分の価値判断を他者の基準に委ねることであって、ぼくが大切だと思っている自己肯定感とは真逆だからだ。
もちろん、自己肯定感を育む上で他者からの承認を得ることは大事だ。
しかしそれは過程であって、結果ではない。
モテない自分でもぼくは自分が好きだから、あまりモテることに意味がない、結局コンプレックスを解消することにしかならない、ということだ。
あと、二十余年スポーツをやってこなかった社会人が、「お前がモテてないのはスポーツやってこなかったからだ」と言われても、いまさらどうすることもできなくない?
過去について言及しても仕方ないから、ぼくは危機感ニキの言葉で激しく心が揺さぶられることはなかったのだけど、世の中にはそうじゃない人もたくさんいるんだろうなとは思う。
そういう人は少なからず「部活に打ち込んでおけばよかった」とか、「スポーツをやらせてくれなかった親が悪い」とか思ったりもするのかもしれない。
スポーツの話に限らず、人間は誰しも後悔に苛まれるものだ。
ああしておけばよかった、もしくはしなければよかったと思い悩む。
選ばなかった未来を想像して、現状と比較し、嘆いてしまうことはあるだろう。
ぼくはそういう人の味方でいたいから、ぼくが持っている解決策を二つ、ここに授けようと思う。
まず一つは、ぼくが「交通事故理論」と呼んでいるものだ。
ぼくがサッカー部に入ってたら、朝練に行く途中で交通事故に遭って死んでいた、と思うようにするのだ。
別にサッカー部でなくてもいい。
受からなかった国立大学に行っていたら荒っぽい運転に巻き込まれて死んでいた。
好きだったあの子と付き合っていたら、デートの途中で彼女を庇って死んでいた。
そういう風に、ifルートの自分があっけなく死んでいた、と想像することで、今生きていてよかったと思うようにする方法だ。
上記の方法は、現状が死ぬよりマシなときにしか使えない方法である、という欠点がある。
ぼくはまだ経験したことがないのだが、死んだほうがマシだと思えるくらいのつらさを感じることも時にはあるだろう(そのくらいつらい時に後悔をする余裕があるとは思えないけど)。
もう一つの方法は、「マルチバース理論」と呼んでいるものだ。
マルチバースというのは多元宇宙とか訳されたりもするが、要はパラレルワールドだと考えてもらっていい。
コインを一枚投げて、表が出たとする。
するとぼくたちは「コイン表」の世界線を生きることになるのだが、ぼくたちの観測しえない場所で「コイン裏」の世界線が続いている、という風に考えてもらって差し支えない。
マルチバースは無限の分岐の末の無限の可能性を孕んでいるため、理論上はどんな世界でもありうる。
つまり、サッカー部に入って好きだったあの子と付き合い国立大学に進学したぼくも存在しうる、ということだ。
「無限に続く円周率の中には、自分の電話番号と同じ数字の並びが存在する」のと同じ理屈だ。
この方法では、どこかの世界で自分は幸せなんだと思える。
たとえ今の世界線の自分が後悔ばかりでも、別の世界では幸せに暮らしているんだからそれでいいと悲観的にならずに済む。
幸せな自分は別の世界線に確保されているから、今いる世界でがんばろうと思えるのだ。
以上二つの手法を紹介したが、ハマらなかったら申し訳ない。
もしぼく以外に、危機感ニキの動画で多少なりとも心が傷ついた人がいたとしたら、別にそんなに気にすることではないと言いたい、そういう記事である。
不特定多数に向けて他人の人生を否定するってことは、どこかしら危機感ニキも欠乏を抱えているんだろうなと想像する。
金銭的な欠乏、精神的な欠乏。
そういう人にあなたの大切な魂を傷つけられるのは、ばかばかしいよ。