悲しみは雨によく例えられる。
雨に濡れると冷たいし、身体が冷える。
その感覚が、悲しみに打ちひしがれる心の様子に似ているからだろう。
うつむくその背中に痛い雨がつき刺さる
祈る想いで見ていた
大野克夫「キミがいれば」より
貴方に降り注ぐものが譬え雨だろうが運命だろうが
許すことなど出来る訳ない
椎名林檎「闇に降る雨」より
ぼくは麻酔科医で、日々病という悲しみを背負った人々を相手に仕事をしている。
日々患者と向き合っていることに加え、病気は「有病率」「リスク因子」などといった数字で処理されるからか、病の悲しみに対して感覚が鈍りがちだ。
だからそのぶん、災害や事故といったものに対する耐性が低いのかもしれない。
Twitterで気が滅入っている人のつぶやきを多く見て感化されてしまったのもあるだろう。
悲しみというのは雨粒のように、誰の頭上にも平等に降りかかる。
善人悪人問わず。
どうしようもない、避けられない不幸がある。
そんな当たり前のことを思い出させる年始だった。
幸い、周りに雨に打たれた人がいなかったのが心の安寧だ。
羽田空港の事故で、乗客がスムーズに避難できたというニュースは、年末のコミケで見た整列入場を想起させた。
何万人という黒山の人だかりが、係員の言うことを聞いて順々に展示場に入っていく。
あれはある種工業製品的な、人の持つ自由さからはかけ離れたグロテスクさがあった。
あの規範はおそらく日本の義務教育で叩き込まれるものなのだが、いざというとき(飛行機事故の際)には本人の命を助けるのだなぁと感心したのだった。
誰かの流した涙滴が、天に昇って落ちてくる。
その繰り返しからは逃れることができないが、ぼくは人の涙から目を逸らさないで生きたい。